大山駅(指宿枕崎線)

皆様、こんばんわ。

2022年も始まりすでに1月も半月が過ぎようとしていますが、みなさまどのようにお過ごしでしょうか。

昨今の事情によりなかなか外出することができなくなっておりますが筆者はなんとか生きております。

昔は年のはじめになると今年の目標をSNSやブログに残していましたが、だんだん歳をとるにつれて自由に使える時間が少なくなってきているのをひしひしと感じております。

時間はあるけど書くネタは無い→書きたいネタはたくさんあるけど整理する時間が無い

状況なのですが、ネタの種類は考慮せすとりあえず整理できたものから順に上げていこう思います。

今年取り上げる題材1つの柱は指宿枕崎線山川駅〜枕崎駅間の通称指宿枕崎線末端区間の各駅について触れていく予定です。

今日は山川駅のすぐ隣、大山駅について見ていきましょう。

南隣の西大山駅は本土最南端の駅としてとても有名で、多くの観光客がいたりお土産物屋さんがあったりしますが、当駅・大山駅ではそんな様子は一切ありません。

下の写真から分かることが。明らかに駅の入り口がどこにあるのかわからないのです。この踏切の左手に狭い道路があり、そこが駅の入口に相当します。

この踏切の先に何か見える。これが大山駅ホームに相当する。

大山駅のホームはこのような作りです。単式ホームですが駅の前後にカーブがあるのがわかります。

写真左手奥にはバラスト(石など)保線用の資材が置かれていますが、ひょっとしたら列車行き合いができるような設計にも対応できるようにしたのでしょうか?

(隣の山川駅では終点設定の列車も多数あり、列車行き合いができます)

大山駅ホーム。行き違いもできるように設計されていたのだろうか。

かなり前に記録した写真なので記憶が定かではないのですが、駅の奥にはバラストや枕木、レールなど保線用の材料が置かれていたような気がします。1日あたりの列車の本数は少なく列車の揺れも激しいのですが、保線作業は定期的に行われているようです。

大山駅ホームから山川駅方面を臨む。

これらの写真を見る限り駅周辺には何も無さそうなのですが、国道沿いには高校や住宅地もあるので一定の利用客の見込みはありそうですが…路線の構造的に1日あたり列車の本数が下り7本、上り8本区間なのがなんとも言えないところです。

どうすれば今後当路線が利用しやすくなるのか考察についても随時述べていく予定です。

ちなみに大山駅の場所は山川方面より国道226号、大山交差点から海側すぐに踏切があり右を見ると一番上の画像のようなホームらしきものが見えます。当駅の駅名標を撮り忘れていますが、mapには駅名標載っているみたいです。

宮ヶ浜Ⅱ(宮ヶ浜駅)

先日の宮ヶ浜防波堤編に続き今回は宮ヶ浜駅について取り上げていきます。

単なる海の見える駅だけではなく色々語り尽くせぬ要素満載の記事になっております。

宮ヶ浜駅駅舎。指宿発祥の地の標識も立っている。


まずは宮ケ浜駅駅舎から。
当駅は昭和9年開業、現在はコンクリート造りの無人駅になっていますが、昭和58年指宿枕崎線のCTC(列車集中制御装置導入)化のころまでは木造駅舎で駅員さんもいらっしゃったそうです。

駅舎内の待合室に昔の木造駅舎の写真が飾ってありました。

昔の宮ヶ浜駅駅舎とホームの写真、駅舎内の待合室に飾ってある。


駅舎写真に載っている標識の通り、この地が指宿発祥の地と言われているそうです。指宿といえば温泉街のイメージがありますが、江戸時代建造の防波堤や駅周辺の街並みを歩くと確かに昔ながら街並みや文化財クラスの商店が残っているので街歩きするには持って来いの所だと思います。

今回はメインで撮っていないのですが、昔ながらの焼酎工場(駅ホーム全体を写した写真の左奥に写っています)やいも飴の販売店(下の駅名標の写真の後ろに写っている建物です)、百貨店と呼ばれる商店(有形文化財に登録されているはず)が残っており今の指宿駅前よりも当駅や両隣の薩摩今和泉駅、二月田駅周辺の方が町として古いというか歴史があるのは歩いていてよくわかります。

宮ヶ浜駅の駅名標。昔は駅名標に日本一海に近い駅のイラストが描かれていた。後ろにいも飴の販売店の建物がある。
宮ヶ浜駅のホーム全景。片面のみで列車4両分は停められる。左奥には焼酎工場も見える。
停車中の列車と駅ホーム。かつて左側には道路がなく海だった。

指宿枕崎線宮ケ浜駅に停車中の列車。駅のすぐ横に護岸があるのですが、元々は護岸から左手は海だったので大村線千綿駅のように最も海に近い駅の一つでした。
ただ、バブル期に大規模親水リゾート地を作ろうとして道路のあたりから埋め立てが行われたのですが、バブル崩壊のために海水浴場は計画倒れとなり公園と道路のみ使用されるようになりました。
海に近かった証拠を示すためにこの写真は引き気味に載せています。極め付けは下の待合室での白黒写真。

駅舎内待合室の写真から。かつては本当に駅の目の前が海だった。騒然ながら石積みの防波堤は昔からあった。

昔は駅前に漁船と材木が置いてあったのですね。

要は、上3枚の写真で当駅の目の前が海だったこと言いたかったのです。

特急指宿のたまて箱号通過シーン。3両編成で走っていた頃すら懐かしい。


宮ケ浜駅と隣りの二月田駅の中間あたりに列車交換設備できる駅もしくは信号場あっても良いのかなと思ったことがあります。(住所でいうと東方あたりに相当する思います)
というのは指宿枕崎線薩摩今和泉駅から指宿駅までの間に宮ケ浜、二月田と駅があるのですが両駅とも列車の行き違い設備を持っていません。そのため、薩摩今和泉駅または生見、指宿駅において長時間停車する普通列車がいます。
国鉄時代に作られた路線の場合1日あたりの列車の本数が少なく、駅間距離も長く設定されたところもあります。
たしかJRになる前後で指宿枕崎線内に郡元、宇宿、慈眼寺の3駅が新駅として生まれています。同時に慈眼寺駅で列車交換できるようになったおかげで列車の本数を増やすことができました。
今では鹿児島中央駅発着の路線では指宿枕崎線が最も列車本数が多く1日あたり上下50本近く発着しています。
現状喜入までは良いのですがその先指宿方面に行く際、普通列車に乗車してみると薩摩今和泉駅〜指宿駅間がずっと単線のままなので運行上ネックになっているのではないかと思うことがあったので、喜入から先指宿方面の列車の本数増やすとなった場合、列車交換できる場所が欲しいなと思うところです。

宮ヶ浜駅ホームにて。西鹿児島の文字も懐かしいけど、長渕剛の名前も気になる。

上の写真で2つのことが語れます。
まずは駅ホーム向かいに書かれた西鹿児島方面の文字。私も未だに西駅と言ってしまう時があります。まだ西駅前朝市ってあるのかな?
昔は指宿線朝市というのがあって指宿枕崎線早朝の列車で指宿方面から行商のおばちゃん達が乗っていたという話は聞いたことあります。
そしてもうひとつのお話、ここ宮ケ浜は長渕剛アニキの「鶴になった父ちゃん」の歌詞で
幼い俺を父ちゃんはバイクに乗せて宮ケ浜にいつも連れてってくれた 浜の西に沈む夕陽が赤く揺れてって…
て他界したお父様について触れています。おそらく先日載せた防波堤のあたりから夕陽を見たのでしょう。
私も両親を病気で亡くしているので(元気だったころの姿で)逢いたいという気持ちはすごくわかります。

何かしらの影響で海と踏切の写真を撮ってしまう。
枕崎行き普通列車
魚見岳と到着する列車

宮ヶ浜編の締めに魚見岳と入線する列車といったところでしょうか。
この写真、拡大したら分かったのですが今は運用離脱した(どこに行ったのか所在不明の)キハ47 131いわゆる47の原型エンジン車(元々キハ47系についているエンジンDMF15HSA形は車体の大きさの割に出力が弱く加速が鈍臭いのと登坂性能が良くなかったみたいです。JR九州のキハ40または47のほとんどの車はエンジンや変速機、減速機を性能の良いものに交換されており、交換済みの車両は車両番号が改番されています。キハ147とか47 8000番台または9000番台になっておりスムーズな加速など走るようになりました。)です。指宿枕崎線に原型エンジン車入っているイメージなかったのですが運用されていた時期もあったのですね。
それと、願わくばなのですが、宮ケ浜駅もしくは肥薩おれんじ鉄道の高尾野駅のどちらか欲を言ったら両駅で列車の接近放送で長渕剛さんの「鶴になった父ちゃん」を流すのも有りなのかなあとも思ったところです。

吉利駅

日置駅を過ぎると線路は右にカーブして国道270号線を潜って海側(の近く)を走るようになります。とは言っても車窓から海見えるとうわけではないものですが…

下の写真2枚はその名残で、盛土のところに線路があったところです。よく見ると、枕木や小さな橋がそのままで残っているところもあります。

日置駅から吉利駅方面に向かう線路跡。枕木が残っている。
中程の土手に線路があった。この先国道270号を潜って海側に抜けたみたい。

国道270号線吉利交差点から少し南の方へ走らせたところ(自動車屋さんのちょっと先)の海側に吉利駅跡はあります。このあたりの道路をちょくちょく走ることがあるのですが、微妙に国道から離れているので駅を探そうとして走らせてもいつの間にか通り過ぎてしまっていることすらあるくらいですね。

その代わり、駅跡を見つけられたらホーム跡は綺麗に整備されているのでじっくりと見学することできます。

吉利駅跡。今立っている場所が最後までホームがあったところ。

駅が現役の頃でも日本家屋みたいな木造の駅舎が立っていたうえに、ホーム自体も草木で覆われていたそうなので今の方がすっきりして見やすくなっているのかもしれません(笑)

線形かま見て上の写真のところに旅客ホームが、中程の写真のところに貨物のホームが、下の左手のところにかつての対面式ホームがあったのかと思われます。

吉利駅跡。こちらのホームは貨物用だったのかもしれない。
昔は2面2線の対面式ホームであった。この写真の両サイドにホームがあったと思われるが、晩年列車交換の施設は撤去されて1面のみ使用されていた。

駅のあった場所はこちらの地図を参考にしてください。地図を見ると、吉利の集落というか町並みから微妙に離れているような立地ではなかったかと思われます。吉利の名所園林寺跡(後日紹介予定)や鬼丸神社(日置のお祭りせっぺとべ八幡神社版参考)からも離れているといえば離れている印象があります。このことについては南隣にある永吉駅や北、南多布施駅あたりにもいえて住宅があるところから駅まで距離があるとなるとちょっと使いづらいのかなとも思ってしまいます。昔の鉄道の歴史について調べれがヒントがあるかもしれませんね。

上日置

昭和50年代まで鹿児島県内にも私鉄の普通鉄道が存在していたのはご存知でしょうか?

その名は鹿児島交通南薩線、もしくは南薩鉄道といい鹿児島本線の伊集院駅〜加世田駅〜枕崎駅(指宿枕崎線と接続)を結んでいました。1983年に豪雨のため当駅〜日置駅間が運用休止、翌年廃線となった路線です。

今回から不定期になりますがこの鉄道について追っていきたいと思います。

伊集院駅の象徴である島津義弘公像。中村晋也先生作。
鹿児島中央駅前にある若き薩摩の群像も手掛けられている。

南薩線が廃止されても現在の駅舎ができるまで・駅周辺が整備される前までは南薩線用のホームが残っており、ホーム跡は駐車場として使われていました。(その様子がナニコレ珍百景にも紹介されたそうです。鹿児島駅にも同じような使われ方をしていた元ホームがありましたが…)

伊集院駅を出発すると左の方にカーブし、下の写真のように橋で県道を越えていました。この橋の左手に大田トンネルがありますが、豪雨災害による漏水のため晩年当駅から日置駅までは回送扱いで走っていた(乗客はバス代行で対応していた)そうです。

大田地区は水が良いのかそうめん流しやカフェ、水力発電所があります。確かにこの橋のそばにあるカフェのコーヒーは美味しかったです。

県道24号線の伊集院から美山方面に向かう途中にある南薩線のコンクリート橋跡。

ここからが今回のメインになる上日置駅跡について触れていきます。

南薩線上日置駅。1916年この地区に毘沙門地区にちなんで毘沙門駅として開業、1934年上日置駅に改名されました。

場所的には伊集院駅と旧日吉町の中心である日置駅の中間にはあたるのですが、駅の周辺に集落はなく県道から少し離れた山の途中にある印象です。小学校のある住吉地区もここから少し日置寄りの線路沿いにあるのですが当駅は住宅地ではなく、(繰り返しますが)日置から伊集院にかけての長い登り坂の途中にありました。

上日置駅を伊集院駅側から全体像を。対面式ホームではあったが高低差が見られる。
まっすぐ進むと日置駅に向かう。六角精児さんも当駅を訪れたことがあってどこかにサインがあるそうだ。

この写真を見るとわかるかもしれないのですが、奥に行くにしたがって手前側のホーム(本線)は坂を下っています。一方、向かい側のホームは坂を下らず平になっていて行き止まりとなっています。

ということは日置駅から坂を登ってきた列車は一旦手前側のホームを通り過ぎてからポイント切り替え後バックして奥のホームに入線していたということになります。

すなわち、当駅はスイッチバック駅だったということです。現存する駅で例えるなら四国にある坪尻駅の形が近いかもしれません。

かつては鹿児島県内には先日紹介した薩摩永野駅と当駅、そして昔の鹿屋駅と3つのスイッチバック駅があったということになります。(いずれも廃線のため廃駅となっています)

上日置駅の給水塔。石積みで立派な造りである。

南薩鉄道では開業時より蒸気機関車での運用があったため、このような石造りの給水塔が設けられいる駅がありました。当駅はその一つに挙げられます。隣の日置駅にも給水塔はあったのですが、途中から水の出が悪くなったようで水の出の良い当駅を給水ポイントとしてよく使っていたようです。

駅のホームあたりからの眺め。隣のホームに比べ勾配があることがよくわかる。

こうしてみると当駅は急勾配の途中にあることがわかります。おそらく、昔の機関車では出力がなくて坂を登り切ることができず、途中で休憩を挟む必要があったのでしょう。

別の角度から、こう見ても勾配はきつい。

ディーゼル列車の登場後、1971年には列車交換が不要になり無人駅になったのを機会に上り線のホームは使われなくなりました。その後、1984年に駅は廃線のため廃止となり長い間草叢の中に埋もれていましたが、2014年南薩線100周年記念展に合わせて整備を行った結果30年ぶりにこの駅の姿が現れたそうです。そして、今でも整備された姿を見学することができます。

話逸れて時間を遡りますが、1945年3月18日、当時の日置村でも米軍の空襲があり上日置駅に停車中の列車にも機銃掃射があったそうです。3名死亡、その他多くの負傷者が出たそうです。そのころ私の父方の家族はこのあたりに住んでいたので(他人事ではない)よく生き残れた、(しかも私の祖父はその年に長崎の工場に学徒動員されていて原爆に遭っています)今私が生かされているのは有難いという思いがあります。

上日置駅駅名標。南薩線の駅名標は力強い手書きの書体が非常に渋い。

長々となりましたが、南薩線の駅名標も。

国鉄の駅名標にはない手書きの独特な字体が非常に力強くて面白いです。

最後に、ここには道路を超えるように鉄橋がありました。鉄橋を超えると高度を下げながら日置の町に向かうのでありました。(駅から離れて日置寄りになりますが、この辺りには小学校や住宅地もあります。)

私が幼少のころここに南薩線の鉄橋があったが、今は撤去されている。
ちょうど山裾を線路が通っていたと記憶している。

薩摩永野駅

これまでの投稿では主に旅行系や海系、寺社仏閣たまにその他思った事を書いていましたが、

これから数記事ほどは廃線に関連したものをあげていこうかなとも思っています。

まずは国鉄宮之城線関連のところから。

宮之城線は鹿児島県の川内駅から薩摩大口駅までの66.1kmを結んでいた国鉄のローカル線でした。

国鉄再建法の施行により第2次特定地方交通線(いわゆる赤字ローカル線)に指定され1987年1月10日、国鉄民営化の直前に廃止となりました。

国鉄宮之城線路線図

今回は宮之城線の駅のなかで最も変わった構造をとっていた薩摩永野駅の遺構についてとりあげていきます。

現在当駅の駅舎は存在しないのですが、代わりに永野鉄道記念館という建物があり、改札や駅名標などが展示されています。

永野鉄道記念館 構内から
駅名標と改札口。駅名標よく見てください。

こう見ると普通の駅のようにみえるのですが、駅名標をよくみると路線の中間駅でありながら両隣の駅名が片側のみに書かれています。ここに当駅の特徴が現れています。

そう、その特徴は上にのせてある路線図の通りスイッチバック駅であることです。しかもこのスイッチバック構造はただ坂がきついから存在するというわけではなさそうだということが、後に載せる写真を見ていただければわかるかと思います。

追記、南薩線上日置駅もスイッチバック駅でした。こちらの記事も参考にしてください

左に進むと広橋・宮之城・川内方面、右に進むと針持・薩摩大口方面に向かう

この写真のアスファルトの所にレールが敷かれていました。左側に進むと宮之城・川内方面へ、右側に進むと薩摩大口方面に向かうことになります。見た感じでは坂があるけど急勾配のようには見えません。下に載せてある写真を見ると分かると思います。なお、現在道路沿いにはソメイヨシノの木が植えられており、桜の花が満開を迎える季節になるとものすごく見応えがある風景になるそうです。大口駅近くの忠元公園にも負けないかもしれません。タイミングが合えば是非とも撮りに行かなければ。

先程の場所から引いて撮ったもの、シーサースクロッシングと腕木式信号機が残されている

引きの写真で見ると二本の線路が直進と交差していた事がわかります。駅周辺の地理はすぐ下にある地図を参照してください。薩摩永野駅を飛ばして両隣の広橋、針持駅を直線で結んだ方が距離的には短くなるのですが、わざわざ当駅に立ち寄っているように線路は敷かれていました。それには理由がありました。

上の地図を拡大すると永野金山跡(近々記事にしようと思います)という史跡があります。そう、永野金山があり周りに大きな集落があったために当駅が作られたそうです。ちなみに、地図をもっと縮小してみると薩摩永野駅からさらに山を越えて肥薩線の大隅横川駅に接続することはできそうでした。が、当の永野金山が1965年に閉山したため、集落の人口は減ったのは容易に想像できます。列車の本数もそれほど多くはなく川内〜薩摩大口運用が7本くらい、川内〜宮之城、川内〜薩摩永野、針持〜薩摩大口など区間運用の列車が数本いたそうですが、各方面に向かうのに利便性が良かったのか?というと微妙だったみたいで1984年には第2次特定地方交通線として廃止承認、1987年1月10日宮之城線は全線廃止となりました。

以下の写真は永野鉄道記念館で展示されている鉄道設備、車両になります。

宮之城線各駅にあった駅名標
モーターカー
モーターカー、いわゆる作業車です

上2まいはモーターカー、保線作業するための機械扱いになります。

車掌車 ヨ8000形

車掌車ヨ8000形も置かれていました。車内は石炭ストーブ、垂れ流し式トイレ付きでした。

シーサスクロッシングと車掌車
腕木式信号機

この写真の山手の方にかつての永野金山が有りました。そのため周囲には大きな集落があったそうです。この山を越えるように線路を敷設すれば今の肥薩線大隅横川駅の近くに接続することも可能であったかと思われます。(霧島方面にいく近道となり、国分隼人、鹿児島市方面に鉄道でいくとなった場合ショートカットできたかも)別で触れますが、宮之城から鹿児島市へ向かうには(国鉄バス時代から)JRバスが1日数本入来峠越えで設定されています。

最後に薩摩永野駅跡は場所的に山奥というわけではないけど、なかなかわかりにくいところにあって現在は少し秘境感があるのですが、鹿児島空港からそんなに離れておらず1〜2時間置きに1本いる鹿児島空港はつ阿久根行きの空港バスで行くこともできます。スイッチバックの施設もいいのですが、桜の満開の季節を狙うのが一番いいのかなと思うところでした。

四苦八苦七転び八起き喜入重富

今年の節分を持って八方塞りからの空亡までの3年を乗り切った。

まだまだ不安なことはあるけど、ようやく人生の再スタートに踏み切れるかなあと思う。

先日鹿児島神社でおみくじを引いた時の神様の御言葉より

七転び八起き、魂は一度きりではない。幾千万年続くそうだ。

ついついコンビニで手にした下の写真の本にはプロ野球解説者金村義明さんの12転び13起きなんて名言も出てた。

20歳超えてから逆境が続くなと感じるようになったけど、

心を強くするための試練の道らしい。しんどいけど…

この先はこんな駅名のような人生にしていきたい…していきます。

受験の時に有名な喜入、列車の車内アナウンスで喜び入ると言っているし、入場券も販売しています。

こちらは重富、大河ドラマのロケ地にもなっているそうです。

大隅横川。

10月14日は鉄道の日ということで、鉄道関係の記事を。

初夏に肥薩線嘉例川駅を訪れたことを書いたのだが、今回は嘉例川から吉松方面に3駅行ったところ、
大隅横川駅を訪ねてみた。
大隅横川駅駅舎は嘉例川と同様に肥薩線開業時の荘厳な佇まいをそのまま残しており、
国の有形文化財にも登録されている。
築年数はゆうに100年を越えている。

赤い丸形の郵便ポストも様になっている。
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夏場に訪れたので、駅内にほおずきが飾られていた。
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観光特急「はやとの風」入線。黒いボデーがおつだ。
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第二次世界大戦中に受けた機銃掃射の痕が柱にまざまざと残っている。
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島式ホームに使われている柱もずいぶん年季が入っていた。
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駅構内の様子。

列車のいない時間帯はひっそりとしていた。

田舎の駅の割には広い感じもあった。

かつては幹線として活躍した路線の名残なのか。
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まもなく、次の列車到着。
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日南線用なのだろうけど、たまたま肥薩線で見かけた。
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柱に書かれた「吉松、栗野方面乗り場」の字体が良い。
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最後に、魚眼レンズを使って駅舎を撮ってみた。
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ゆっくり時間が取れたら、肥薩線全線乗り通したいな。