池田湖の黄金鳥居

年末も押し迫った今日この頃ですが、指宿市内の各地では12月に入るとすでに菜の花が咲き始めております。

というのは年明け早々「指宿なのはなマラソン」が開催されるため、コース沿いに菜の花が植えられています。

まずは定番のアングルから池田湖畔にて菜の花と湖と開聞岳の3点セットから。

池田湖畔にて菜の花と開聞岳

ここまではよくある光景なのですが(多分)、ここから先はあまり馴染みがない光景が続くと思います。

季節感がよくわからなくなるものから。

下の写真をご覧ください。少なくとも私は菜の花とコスモスが同時に咲いているのを初めて見ました。

場所は池田湖畔にあるえぷろんはうす池田の近くにて。今年はコスモスを見に行く機会がなかったので無理かなと思いましたが、まさかここで菜の花と同時に見られるとは予想していなかったです。

菜の花とコスモス

もう一点、予想していなかったものがあってそれはコスモス畑のなかに1輪のひまわりが咲いていたことです。

コスモスとひまわり

これで夏と秋と春の象徴である花が1箇所で揃うという珍しい光景ではありました。(撮影日2021/12/15日現在)

コスモスと菜の花と池田湖。開聞岳を添えて

まあ、噂によると池田湖にはイッシーと呼ばれる恐竜なのか怪獣なのかよくわからない未確認生物が生息しているらしいです。

池田湖で生息しているらしいイッシーと云われる何か

ようやくここから今回のタイトルに関わる話題になります。

池田湖には昔から神の御池と呼ばれており、龍神伝説もあります。

「往昔,池田村の内,池端門の農夫四郎といへる者の祖先某,一日,某家の婚礼に往くとて池辺を通行せしに,人頭龍身なる者,水渚き菰蒲の叢中に臥居たりしかば,某,短刀を抜きて彼の龍の首を斬る。龍,傷つき紅血を散して水中に入る。其の夜,某,俄かに病んで死す。某の妻,又,俄に病をうけ,狂言して曰く『我は此の池の龍王なり。我を殺せし故に汝が子孫を悉く絶すべし』と。」

その後親族が社を建てて罪を償うと謝罪すると龍王は怒りを鎮めて妻の狂気も治ったそうです。その社が今の池王明神にあたるそうです。

私が小さかった頃、親にこの池に落ちると死ぬと云われていたこともあり恐れ多いイメージが今でも残っております。

さて、先ほどの話で出てきた龍神と関係するのかどうかはよくわからないのですが、池田湖の道沿いにパワースポットと書かれた謎の立て看板が何枚か出てきます。その看板通りに車を進めると下のようなものが見えてきました。

黄金鳥居と開聞岳。鳥居左手には昇龍が鎮座している。

いわゆる黄金の鳥居が見えてきました。アングルによっては鳥居の中に開聞岳を収めることもできます。鳥居の左手には龍神伝説にちなみ昇龍も鎮座していました。

ではなぜここに金の鳥居があるのか?

かつてこの地の近くに大谷鉱山がありました。この記事を書くにあたり初めて知った鉱山なのですが、1844年発見。金、銀、亜鉛が採れたそうです。ただ、当時の技術では採掘が困難で4年後に休止、明治になった1887年に採掘再開したものの第二次世界大戦開戦後には閉山したそうです。金の鳥居は近くの住民により大谷鉱山があったことを語り継ぎたいという思いから建てられたそうです。

黄金鳥居をメインにして開聞岳を眺める

鳥居傍にある昇龍の中はこんな感じでした。宝くじ等載せれば当選確率アップするのでしょうか?

昇龍の中身
金運上昇するのだろうか
金色のベンチも供えられており、ここから池田湖と開聞岳を眺められる。

他にも池田湖周辺には面白い看板や施設も多々あるので訪れるのにはおすすめのスポットです。

という季節感わからない、それと初めて知った歴史やパワースポットらしきものを載せて今年のクリスマスイブ(すき)は締めようと思います。

永野金山(山ヶ野金山)

先日記事にした薩摩永野駅に関連するのですが、当駅から東側山手の方向かうとかつて金山が存在していました。今回はその金山の遺構について見ていこうと思います。

現在は鹿児島県伊佐市にある菱刈金山が国内唯一の金の採掘となっていますが、かつては新潟県の佐渡金山や北海道の鴻之舞金山はじめ、鹿児島県内でも串木野や今回紹介する永野(山ヶ野)でも金が産出されていました。

下の写真は薩摩永野駅から横川町方面を見たもの、見えてる山から金が産出されていたそうです。

薩摩永野駅より金山の方を臨む。山を越えると横川町につながる。

少し話は脱線しますがここでひとつクイズを。

鹿児島県内で最初に電気鉄道が開通したところはどこでしょうか?

普通に考えたら鹿児島市電かなと思われますが正解は違います。ヒントはこの橋梁跡です。

トロッコ鉄道の鉄橋跡。石積みの橋脚のみ残る。

鹿児島電気軌道(今の鹿児島市電になります)の武之橋〜谷山間が開業したのは1913年。
一方、この写真にあげた橋梁のあった鉄道(トロッコ列車)の電化は1909年になるので、こちらの鉄道の方が電化された時期は早かったことになります。
ではこの鉄道は何の為にあったのか?
というと、写真右手(山手)に永野金山があり金山の入り口が、左手山の麓には精錬所がありました。
1907年、坑から精錬所まで鉄道が敷かれ最初は馬で車両を引いていたそうですが、1909年設備の近代化により電化が進むとポール式の電車が使われるようになりました。

下の写真はトロッコ遺構の案内板です。

トロッコ遺構の立て看板

ここからは永野金山本体の歴史について。下の写真は坑道への入り口になります。

坑道への入り口。今はしっかりと塞がれている。
坑道の名は胡麻目坑。島津家の家紋丸に十の字が掘られている。

トンネルの上に「胡麻目坑」の文字と島津家の家紋である丸に十の字が彫られています。

この鉱山は1640年に内山与右衛門により発見され、翌1641年に江戸幕府に報告、1642年より採掘開始されました。最初は露天掘り(金鉱石が地表に散乱している状態)でしたが、後に地面を深く掘る方法に変わりました。一時は佐渡金山に匹敵する産出量を誇ったそうです。詳しくはこちらのリンクを参考にしてください。
坑夫さんたちや精錬所で働く人達がいたため、近くに大きな集落ができたことは想像できます。
(先日投稿した国鉄宮之城線がわざわざ薩摩永野駅でスイッチバック構造をとる形をとった1つの要因でもあったらしい)
幕末〜明治期にはフランスから技師を招き、施設の近代化をはかるため水力(水力発電所)や蒸気機関・施設の電化が進められたそうです。先ほどのトロッコ鉄道の電化もその一環と考えられます。永野精錬所と名付けられた新しい精錬所は最盛期において1000名以上の従業員を抱える鹿児島県内有数の大企業となりました。

下2枚の写真は坑夫専用風呂場跡。
元々はなかったそうなのですが、坑夫たちがトジ金(自然金)を密売する事件が発覚、警察に検挙されると鉱山が操業できなくなり、失業者も増えて社会問題となりました。
会社との協議の結果、密売価格は月賦返納、帰るときに風呂に入っている間持ち物検査をすることで盗難を防いだそうです。

坑夫専用の風呂跡
坑夫専用風呂の中。坑夫たちが入浴しているあいだに弁当や持ち物の検査をし金の盗難を防いだ。
坑夫専用風呂ができた経緯

活気があった永野金山でしたが、1943年には太平洋戦争のため休山、戦後新たな鉱脈を探索したのですが新たな鉱脈は見つからず1965年に閉山となりました。

永野金山の年表は下の写真も参考にしてください。

永野金山の歴史年表

永野金山から場所は離れますが、姶良市加治木町にある龍門滝の上流域に金山橋という石橋があります。この橋は1879年頃に島津家が金鉱石や物資を加治木港に運ぶための道路にするため架けられたそうです。ということは隼人〜吉松駅間の肥薩線(当時は鹿児島本線)の開業が1903年になるので、鉄道よりも道路の方が先にできていたことになります。先日の投稿で大隅横川駅と薩摩永野駅を繋げなかったのは何でだろうかと思っていましたが、歴史的に調べていくと物資を運ぶ道路の方が先にできていたのでわざわざ鉄道で山越えてつなぐ必要はないということも考えられます。

姶良市加治木町にある金山橋。山ヶ野金山(永野金山)と関わりがある