鹿児島発プロジェクションマッピング。

先日鹿児島で、第30回国民文化祭が開催ました。

これに関連したイベントとして、2015年11月29日まで鹿児島プレミアムお得旅キャンペーンと題して、鹿児島発のプロジェクションマッピングが県民交流センターでほぼ毎晩(18:30~、19:30~、20:30~、ただし24日と荒天時は休演)上映されています。

1回見たら、映像がすごすぎで病みつきになるかもしれませんよ〜。

何度も見に行く価値ありますので、お近くの方は是非〜。

 

 

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ひかり。

ここ1週間ほど覚悟はしてたものの、

天気の崩れがひどいようで、

青空を望めたのはたった1日だった。

悪天候が続くと、いつも光が欲しいと訴え続ける私がいる。

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あお。

非常に感覚的なお話になります。

私は昔から青系の色は好きなのだけど、同じ青でも微妙な違いを表現することができないのが悩み。

青といっても、

以前はエメラルドグリーン系が好きな時期があったので、南の島に行ってサンゴ礁の海をみてみたいと思うことがある一方で、

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真っ青系がいいなぁと思う時期も来ます。

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さらには、紫に寄った青もなかなか捨てがたい。

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この青空もなんかいい。

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あとはその日の気分次第になるのかな。。。

番所鼻。

私の場合、

「あることがしたい」

と思ったとしても、

「時期が合わないとどうしても動けないもの」

そういう縛りが非常に強いようで単なる願望だけでは全く動くことができない体質になっているようです。

さて、今回訪れた場所も前からから行きたかったのだけど、
なかなか「行っていいよ」というGOサインが出ず、行くタイミングがなく、

昨日になってようやく訪れることができた。

かの伊能忠敬が「天下の絶景」と仰せられた場所。

その場所とは南九州市頴娃町番所鼻自然公園(ばんところはなしぜんこうえん)。

その前に、菜の花がみたいということで、指宿の池田湖に立ち寄りました。

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指宿といえば”池田湖”と”なのはな”ということで、

定番なショットなのですが、池田湖畔になのはなが咲き、背後に開聞岳がそびえる様子を一枚。

桜をはじめとしてお花を見に行くこともあるけれど、菜の花を見に行ったのは初めてになります。

私自身、もともとはそれほど黄色は好きではなく、服装もほとんど黄色いものは着ず、

部屋の中にも置いていないのですが、

気になる色(昨年の今頃書いた記事です)

今年の2月はそれほど黄色のことを氣にしなくなったかな(笑)。

今は外に出たいという氣持ちというか感覚が強く現れているのかな。。。

そんなことを思いながら、移動。

こちらは先ほどとは別の場所でなのはなと開聞岳。

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この近くにそうめん流しで有名な唐船峡があります。

途中、枚聞神社で梅の花を発見。

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「指宿のたまて箱」の登場により浦島太郎の伝説ですっかり有名になった竜宮神社は枚聞神社の南、長崎鼻にあるそうですが、時間の都合上次回訪ねることにします。

さてと、私は枚聞神社から南西へ。

いよいよ今回の目的地に到着。

かの伊能忠敬が絶景と仰せられた。頴娃町番所鼻。

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岩場と開聞岳の組み合わせが言葉にできないほど美しい。

ちょうど引き潮だったようで、岩場も歩いてみることにした。

名前はわからないけど、貝がたくさん岩場に張り付いていた。

海藻のひじきも生えているところでは足場が滑りやすくなっていた

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タツノオトシゴハウスにて

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夕暮れ時。

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数時間滞在したけど、絶えず観光客がおりました。

帰りに喫茶店「くろんぼ」にてピラフを食す。

写真に写っているテーブルはオーナーの自作だそうです。

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流れ着いた椰子の実を磨いたもの。
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お店の看板も流木から手作り。
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この場所に来てオーナーさんの話を聞くと、

趣味を持つことの大切さと自然を活かすことの面白さを感じられずにはいられなかった。

あ、釜蓋神社はまたの機会で。

昨年は霧島に縁があったけれど、どうやら今年は指宿方面を訪れる機会が増えそうです。

沈黙(表現についての考察4)。

時々、表現のことについて個人的な考えをブログに書いてきたのだが、今回は沈黙をテーマに考えてみる。

どうして沈黙にこだわってみたかったのか?

というと。

声を上げて主張したとしても、どうでもいい人(興味のない人)たちにはただうるさたいだけにしか過ぎない気がしてならない。

実際、筆者自身パレード(またはデモ)に参加したことがあるけど、ただただシュプレヒコールをするだけでは威嚇しているようで相手も自分自身も怖さを感じてしまう。

あまのじゃくな面をもつ私だからかもしれないが、

騒がしい今日この頃、沈黙という手段を使って、何か表現できないのか考えてみたい。

沈黙で思いつくのがこの歌、

Simon & Garfunkel   The Sound of Silence

直訳すると沈黙の音となり、歌詞の内容は非常に難しくなる。いろいろ解釈している記事はあるけれど、

「社会が問題やメッセージを無視するというフラストレーションと不安。」

「人々にはコミュニケーション能力がある。周りを見て、お互いに愛し合うべき。」

という意味合いがあるそうな。

<参考記事>

Sound of Silence 歌詞を直訳して真相に迫る

今の日本はコミュニケーション不足に陥っていると思うし、

知らず知らずのうちに何も見ようとせず、知ろうとせず生きていく方向になっている。

続いて、沈黙といって思い浮かぶのはこの人。

マハトマ・ガンジー

彼はインド独立の父であるが、週に一度沈黙の日を設けて心の平穏を得ようとしたそうだ。

騒然とした世の中で心の平穏を求める為に沈黙したそうな。

暴動ではなく、非暴力、不服従による独立運動を指揮し、イギリスからの独立を果たした。

沈黙すると、社会に対する不安を感じる一方で、心の平穏を取り戻すこともできる。

沈黙はこの世で生きていくうえでの矛盾というか二面性とういうかを現しているのかな?

ちなみに、写真や絵画などは声を上げないで(沈黙して)物事を表現できる手段ですよ。

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表現についての考察3

私がとある友人からホームページ&ブログを書くことを勧められてから今月で約一年を迎える。

ブログを書き始めた頃は時間的に余裕もあり(当時としては・笑)練りに練った文章を書いていたつもりだった。

文章を通して何か表現できはしないかな。。ってとある連載企画も頭の中にはあったけれど、

今年の春からある仕事を始めたのもあり、脳みその中に文章を練りだす能力の衰えが出てきだした(泣)

短い時間で自分の想いをぱっと伝えられたらいいのだけど、なかなか難しいもの。

以前、

”伝える相手がいて、その相手に対してちゃんと主張、想いを伝えること”を”表現”

というのではないかと言う記事を書いたことがあった。

とはいえ、今年に入りどうしてもいただけない事柄がある。

“ヘイトスピーチ”

自分だけ良ければそれでいいのか?

憎しみがさらなる憎しみを生み出してしまう。

ここのところ、行動をとった人間に対して叩き落とそうとする風潮がいっそう強まっている感があり、

知らず知らずのうちに、物事を冷静に見る力を失っているのだと思う。

流されない!!

平和な世の中であれ!!

肝に銘じます。

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表現についての考察2

先日、表現についての考察1

という記事を書いたのだが、今回はその続きに相当する。

 

昨年、私は素人ながらとある動画を撮影、編集する機会があった。

編集しながら、

”同じ素材でも、編集者の意図によってどんなことを伝えたいのかが変わる”

と気づいた。

実は、一昨年あたりから、個人的に

”日本の大手マスコミの報道の仕方はおかしい(正確なことが伝わっていない)のではないか・・・!?”

と、 思うようになり、自分で映像を撮ってみて、なるほどなと思った。

受け手側からみると、

”ただ流されている情報を鵜呑みにしてはならぬ”

ということになる。

このエピソードをFBに投稿したところ、

”義務教育のカリキュラムに表現という教科を入れてはどうか?”

というコメントを頂いた。

義務教育で

”表現”

という教科を取り入れて欲しいなと思った。

表現という意味について、当初私は、

”自分の主張したいことを好き勝手にすること”

と認識していた。

しかし、よくよく考えると、

”伝える相手がいて、その相手に対してちゃんと主張、想いを伝えること”

が大事だということに気づかされた。

すなわち、

”自分の主張したいことを好き勝手にすること”

を、

”運動”

と言い換えることができ、

”伝える相手がいて、その相手に対してちゃんと主張、想いを伝えること”

は、

”表現”

と、言い換えることができそうだ。

次回へ続く。

表現についての考察1

私が昔から抱えている悩み。

それは相手に私の言いたいことが伝わらないこと。

相手に対し、

”こう伝えたい”

と最初は意気込んで話しているのだけど、話していくうち、ちょっとずつ伝えたいことからずれていき、最終的には全く伝わらずに場が終わってしまう。

”こんなはずではなかったのに”

と反省というか後悔することの繰り返し。

以前、鹿児島は宣伝下手だと(参考・南京町からちょっと海寄りのストリートで。) 思ったのだが、なにしろ、書いている本人の表現能力が無さ過ぎるのは否めない。

少なくとも器用な方ではない。

私の周りにも

”鹿児島から発信するんだ(または発信しなけれがばならばならない)”

と思い込んでいる人はけっこういる。

だけど、なかなかうまくいっていないのが現実。

私もそうだったのだけと、

”最先端のものは都会から発信されるんだ”

という観念があり、地方に住んでいるとそれを受け入れるしかないのかなとも思った。

そこが保守的なのかな。

ちょっと話が逸れつつある(表現力@鹿児島については改めて書いてみます)ので、私個人としての実体験やいろんな人と話していくうちに感じたことを、今後このテーマ(表現についての考察)では書いていく予定です。

言論、表現の自由。

現行の日本国憲法第21条より。

1 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。

2 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

自由民主党の改正草案。

1 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、保証する。

2 前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。

何がひっかかるのか?

公益及び公の秩序のフレーズがどうしても気になる。

そもそも憲法は国の在り方を決める。

国家権力の組織や権限、統治の基本原理、原則を定めている法律で、国家がしてよいこと、よくないことを定めている。

日本国憲法三大要素のうち、国民主権に抵触する恐れがある。 改憲案だと、国家が国民を支配する構造になりかねない。

ということは、たとえ国が国民にとって良くないことをしたとても、国が公益に反すると判断した場合、集会やデモ活動などこれまで権利として自由にできたことが、できなくなる可能性もある。

9条問題も大切だが、個人的には表現の自由が奪われることの方がより深刻かと思う。

国民が言いたいことを国家は抑えてはならない。